故ユン・ジョンヒさん主演の映画『ポエトリー アグネスの詩』、流れた年月のぶんだけ輝く作品
2023年01月31日

※映画の内容が含まれています。
ポスターだけ見ると優雅な高齢者の女性を主人公にする“ヒーリングもの”を想像するが、イ・チャンドン監督の映画『ポエトリー アグネスの詩』は、最初の場面からぞっとする。詩とは、きれいな言語で美しさを賛美するものだという概念と異なり、大きなタイトルが死んだ子どもの“死体”の横に浮かぶ。ひとつの単語が伝える2つの意味、きらめく川に浮かぶ女子中学生の死体。美しさと恐ろしさが共存する画面を通じて、監督が語ることはシンプルだ。世の中をまっすぐに見ること。映画のテーマとも無関係ではない。
場面が変わると、カメラは主人公の“ヤン・ミジャ”が座っている病院の控え室のにあるテレビの画面を映し出す。息子を失い絶叫するパレスチナ人女性のインタビューが、テレビから流れてくる。このときミジャの視線はテレビに向かっているが、見ていないのと同じだ。ミジャが受けている詩作教室の先生の言葉のとおり、見るということは“関心を持ち、理解したくて見ることが本当に見るということ”だから。目の前の苦痛でいき過ぎた行為は、しばらくしてまた繰り返される。診療を終えて出ようととすると、放心状態の中年女性がミジャの目に飛び込んできた。最初の場面で登場した死体で発見された子どもの母親だった。ミジャはひそひそと噂話をする人々と共に、この女性を遠巻きに見ていたが、話題のタネ程度の関心しかない。スーパーで会った人や、夕食の際に孫に聞いてみるくらいだ。あの子の名前が何だって?なぜあんなことをしたの?分からない、私が分かるはずもない。ミジャはそうやってやり過ごす。
離婚した娘の代わりに1人で孫の“ジョンウク”を育てる低所得層の女性ミジャは、“ちょっと天然の美人おばあさん”だ。きれいな服と花が好きで、しばしば突拍子もないことを言う。病院でアルツハイマーだと診断された時も、おどけて笑う。そんな天真爛漫なミジャの世界は突如として一変する。亡くなった子どもの“ヒジン”が実は半年間、学校の男子学生6人から集団性暴行を受けており、何も知らなかったいと言っていたジョンウクが実はその連中の1人だという真実を知ったのだ。
信じ難い事実に直面したミジャは、唐突に花見をし始める。花壇に咲いたケイトウを覗き込み、詩想が思い浮かんだ時用にと持ち歩いている手帳を取り出す。美しさが衝撃を緩和してくれると信じているのだろうか。ケイトウの花言葉は“盾”だというセリフを通して、ミジャの行動が逃避だということをより鮮明に表す。しかし盾の後ろに隠れて、見たいものだけを見ては詩を書くことはできない。書いたところで浮かぶのは決まり文句だけ。ミジャは犯行現場となった学校の化学実習室や、ヒジンが飛び降りた橋の上に行ったり、死体が浮かんでいた川沿いに腰を下ろしたりしながら、世の中を見つめ直す。今まで自身が見てきた世の中の反対側、まったく美しくない残りの半分側を見てこそミジャは詩を書くことができた。自分の孫が殺したも同然のヒジンの母親に対面してからだ。ある苦痛の前では、美しさを口にすることさえ罪だということをかろうじて悟ったミジャは、自分なりの方法で解決を試みる。加害者の養育者として自分の責任を尽くし、愛する孫を正しい道に導き、被害者には最小限の道理を尽くす道を選ぶ。映画の中でただミジャだけがそうする。学生たちの中で詩を書くことに成功した人もミジャだけだ。
13年ぶりにこの映画を再び見たのは、もちろん数日前に女優ユン・ジョンヒの訃報が伝えられたからだ。イ・チャンドン監督はユン・ジョンヒの本名をそのまま使うほど、最初からユン・ジョンヒのことを考えながらシナリオを書いたという。そのためか、少女のようなミジャの姿の大部分が実際のユン・ジョンヒを見るように自然だが、演技が輝くいくつかの瞬間が、今回の鑑賞ではひときわ目に入ってきた。例えば映画後半の、近づくパトカーにちらりと目を向ける表情などがそうだ。13年の年月が流れ、映画に登場したミジャのような人をあまり見かけなくなったという苦々しさも共に感じた。自分の過ちの責任を取る人も、他人の苦痛を前に恥じることができる人もだんだん減っているのではないだろうか。立派な作品を残して旅立った故人の冥福を祈る。
